このサイト上では、ぼくが音楽制作に参加した作品の作詞背景を記していきます。
第1回はぼ作詞家としてのデビュー作楽曲 平井堅『楽園』
この楽曲はコンペティションで選ばれ、制作に入り、約5ヶ月ほどの月日をかけて完成しました。
ずっとバンド少年でベーシストとして音楽に明け暮れた日々の10代20代でしたが、20代後半でぼくは飲食業を開業していました。
市の支援事業を利用した街中活性化の一環として街中のビルディングの一角に入店していました。
しかし市の支援であることから移転時期が来て、移転するかどうするかというときに、一緒にお店を運営していた当時おつきあいしていた女性とも別れることになり、ぼくは若い頃の夢を諦めきれず作家事務所へとアプローチをしていたのです。
すると、作家事務所から、「一緒にお仕事してみますか?」とご連絡をいただき、最初にお声がけいただいた仕事が平井堅さんの8枚目のシングルのコンペティションだったのです。
当時のぼくの実家は洋菓子の卸しのお店で、ぼくは店舗の2階に住んでいました。
2階の窪みのような狭い場所にある西向きの仕事机で楽曲『楽園』の歌詞は生まれました。
歌詞を提出してすぐに「2曲とも阿閉さんの歌詞で行くことになりました」と当時の作家事務所のマネージャーさんからご連絡をいただきました。
CDの2曲目に入っている『Affair』も最初はぼくが書いた『Player』というタイトルの歌詞で進められ、実際に平井堅さんの歌入れも行われました。
楽曲『楽園』の歌詞の入り口『満たされた時間の中で・・・』の部分は、
最初は「生まれてきた理由を探した 答えのない街の中で」という歌詞だったのですが、より音楽的にして欲しいということから書き直して現行の入口の言葉になりました。
アーティストサイドの意見を中継していただきながら月日をかけて作詞制作は進行しました。
今までにぼくが書いてきた歌の中では一番長い制作期間でした。
音楽業界そのものにまだ力があり、豊かな時代だったのだと今振り返ってみると感慨深いものがあります。
この楽曲は1年を通してのとても太い形でのヒットソングになり、紅白歌合戦でも歌唱されました。
楽曲が入ったアルバムはベストも合わせると400枚以上のセールスとなり、アーティスト平井堅はその後さらに勢いを増し、ヒット曲を連発するモンスターアーティストになりました。
楽曲『楽園』を書かせていただいたことで、ぼくの元には様々なアーティストからのオファーが舞い込みました。
そのほとんどがコンペティションではなく決め打ちの仕事です。
ジャンルの枠を超えて歌を書かせていただいたおかげで内在していた力をより引き出していただくことができました。
書いた楽曲が売れる。
これは体験した者にしかわからない感覚です。
まるで世界の磁場が変動したのかというような気持ち。
あれから25年の年月が過ぎました。
楽曲『楽園』も今の若者たちからすれば懐メロのような楽曲になりました。
それでも、今聴いても、何度聴いたとしても、この楽曲は色褪せることがなく、いつの時代にも心に寄り添うことのできる歌なのだとぼくは信じています。
この楽曲は、ぼくの人生にとてつもないパワーを与えてくれました。
これから先の人生、またこのようなことがあるのかどうかはわかりません。
でも、一度体験した、あの時代の大きなうねり。
その中で得た学びをぼくはこれからの人生で伝えていきたい。
歌を書いてきてよかった。
それが今のぼくの心からの思いです。
阿閉真琴
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