2022

2022年もあと10時間ほどで2023年へと向かう。

誰もが様々な思いを抱えながら暮らした一年だっただろうと思う。

僕も様々なことがあった。

だけれど、それを引きずっていくわけにはいかない。

より明るい方へ、光ある方へと歩もうとする心に扉は開かれていく。

ありがとうの思いにあふれた一年でした。

2023年は今年心に芽生えたいくつかの種を美しい花にして咲かせてみたい。

大切な魂たちの生命たちの願いをバトンを受け取り僕が叶えていこう。

今年も一年ありがとうございました。

良いお年をお迎えください。

2023年、僕が書く歌がきっと、あなたにも届きますように。

 

Makoto ATOZI

デジタルネイチャー

先日、VR、AR、メタ空間などの開発をしている方とお話しさせていただく機会をいただきました。

富山県滑川市のホタルイカミュージアムに設置されるVRアトラクションを開発したということで実際に体験させていただきました。

頭に装置を設置してメタ空間に入ると広がる3Dの海洋世界。手を差し伸べるとホタルイカが手の上で滑らかに動き回る。

8ビットの世界からPCに馴染んできた身としては、AIの進歩具合になんとも未知なるテクノロジーに不思議な気持ちになりました。

帰宅してからYouTubeで落合陽一の出演している動画を観る。

 

デジタルネイチャーという概念を知る。

デジタルという世界の中にある自然。それらが凄まじいスピードで進歩の道を辿っているのだと言います。毎年、進歩していたテクノロジーの歩みが、今や1分ごとに新しい技術が生まれているというスピード。

開発サイクルの速さがもはや人類の理解範囲を超えてしまっているのだそうです。

バカをバカにできる時代の終わり。

デジタル世界での格差。

旧勢力と新勢力の社会分断。

様々なことが予想され、実際に進行している2022年。

前出の開発者さんが使用しているソフトはUnreal Engine5というもので、なんとオープンソースとして無料で開放されています。

僕も早速ダウンロードしてチュートリアルを探ってみました。

なるほど、簡単なゲーム画面くらいであれば、ある程度のデジタル知識があればつくれそう。すごい時代。

仮想空間の割合、シェアが大きくなればなるほどに、リアルで体感のある世界の中の価値あるものはより高価な価値を持つようになるのでしょう。

デジタルに頼ってクリエイトを行う人々は時代のスピードに巻き込まれてしまうことでしょう。

昨日と今日でテクノロジーは別物のように進化している。

ならば自分はどうすればいいのかと、ここ数日考えていました。

焼き戻しのできないものは何か。デジタルでは容易に再現できないものは何か。

もしも僕らの生身の肉体にも価値ある世界があるとすればそれは何か。

きっと単純に考えるなら衣食住。これはデジタルでは代用ができない。

それでもパーフェクトフード完全食、裸の王様的ファッション、メタバース的資格の錯覚によるインテリアなどはさらなる進化があるのかもしれない。

詩は手書きで書こうと思うようになりました。

想いは生の声で伝えたいと思うようになりました。

新しい世界の中で、僕たちが大切にすべきものは何なのだろう。

イタリアのベネチアなどの本物の動画を見て、メタな3D空間を見ると、どちらが本物世界なのか錯覚が生まれてくる。

実像観念に飢えた世界の中でこれからの子供たちは何をつくり上げていくのだろう。

陳腐で軽々しく聞こえることを恐れながらも、僕は夢と勇気と希望を感じていたい。だからリアルに、自分自身をもっと整えていこう。

デジタルネイチャーの莫大なコンテンツ世界に負けないように、自分自身とつながり、世界を見つめていたい。

大丈夫。見上げた場所に太陽はあり、光が注げば肌は暖かい。

あらゆることがありえる世界の中で、最高の今を歩めるように、胸を張ろう。背筋を伸ばそう。

デジタルネイチャーとシンギュラリティーの世界を僕たちは希望を胸に旅をする。

 

 

射手座の新月

昨日、誕生日を迎えました。

人生も半分以上の月日を越えてきました(医学の進歩でまだまだ寿命はあるのかもしれないけれど)

僕の星座が射手座ということで射手座の物語を調べていたのです。

ヘルクレスの放った矢がケンタウロス族の仲間の腕を貫いて不老不死のケイローンの膝にあたってしまい、苦しみにいたケイローンは、不死の身をプロメテウスに譲りなくなったのだそうです。その姿を悼んだゼウスがケイローンを天に上げ星座にしたのが射手座ということ。

南斗六星があらわす星座でもあり、僕の右腕には南斗六星とおなじかたちのほくろが配置されています。

僕はまさに射手座だなあと、占いなどを見るたびに思います。

狙いを定めて疑いもせずにただ突き抜ける。

これからもこの姿勢は変えないで歩みたい。

Makoto ATOZI

 

見えている世界

 作詞家としてデビューして、デビュー作がブレイクヒット。作詞家としてのデビュー曲が収録されたアルバム・シングルは累計500万枚以上のセールスになり、依頼されるアーティストの方々の歌を書き、環境が激変したことで精神が耐えられず、僕は何度も音楽の現場から離れたことがありました。

 スーパーの早朝清掃のパートをしたこともありました。トイレ掃除をしていると従業員の方が入ってきて、乱れた場所をまた掃除する。そんなときに、自分が書いた歌が店内放送から流れてきたこともありました。(あれはなぜあの時間にBGMがあったのだろう・・・)
でも僕は掃除の仕事が大好きでした。世の中に感染症の広大が始まり、濃厚接触者になったことで退社しましたが(初期でしたので、世の中は今よりももっと過剰反応でもありました)掃除の仕事は今まで就職した仕事の中で(クリエイトではない仕事で)いちばん好きな仕事でした。
いつか、もしもまた何か仕事をとなったなら僕はきっと清掃の仕事を選ぶことでしょう。

僕は自分が歌を書き続けることで、人はどこからでもやり直せるのだということを見せていきたい。そう言うと、「ATOZIは今までの実績があるからそんなことを言えるのでしょう?」という言葉が聞こえてきそうだけれど、それは見えている世界だけでの認識で、実際のところ、今の僕の立ち位置から再復帰というのは宝くじほどの確立の狭き門なのだと当事者として見ています。
年齢、今までの行い、様々な面から見て、僕のような経歴は探せば多いもの。何百万分の一という狭き門を抜けて建てた金字塔ではあったのだけれど、離れてしまえば幻のようなものです。
でもだからこそ挑み甲斐があると決めて、今、僕はもう一度、歌の道を歩んでいます。

 誰もが自分が見ている世界と、自分に見えている世界から人生を判断しようとします。僕もそう。10年間ほども音楽業界を離れ、時々いただくお仕事だけで、あとは一般の暮らし。そんな暮らしをしていると、周りも僕のことをクリエイターとして見ないようになったりします。

ましてや初めてお会いする人には僕は自分のことをクリエイターと明かさないことも多かったので、そのような暮らしが10年も続けば、僕自身も錯覚をし始めてしまいます。僕のいる町では、かなりのビッグアーティストに歌を書いても、そんなに驚かれないのです。ありがたいことでもあります。そうして、普通の日々を重ねてきました。
あれ?僕ってなにも持っていないのでは?
今までの人生っていったい何だったのか?
こんな自己問答の苦しみを抱えて歩んできた日々でした。

 何もこれは自慢話として話しているのではないです。
僕は思います。たとえば子供を産み育てている方々。親御さんの介護をされている方々。または自分の事業を精いっぱい頑張っている方々。自分の苦しみに向き合っている方々。この世界のすべての人間、生命は等しく尊く、それぞれにとっての大事業を行っています。
僕の場合はそれが歌の仕事であったというだけのこと。
だけれど、人は皆、盲点のある眼鏡で世界を見てしまっている。

 だから苦しみに出会ったとき、悩みを抱えたとき、自分に見えている世界の常識だけで問題を解決しようとしてしまう。突破しようと考える。隣の芝生が青く見えてしまう。
そんな時に僕は思います。きっと、見えている世界のレンズをすこし変えてみるだけで、解決策は浮かび上がってくる。

 僕たちの見ているメガネは盲点だらけです。心地よくあるために見えない場所をたくさん作り上げてしまっている。それに筒のようになっていて、せっかく広く奥深いこの世界のほんの一部しか見ることができないようにしてしまっている。
だからちょっとしたことで人をうらやんでしまったり、自分のことを蔑んでしまったり、未来に希望を持てないような気持ちになってしまうこともある。
世界は広い。僕たちに見えていない世界があんなにも高く広く、僕たちを待っていてくれている。見つめていてくれている。包み込んでくれている。

 越えられないような困難?治らないような難病?どうすればいいかわからないような経済的な窮地?

 世界を広く見たならきっと、新しい言葉が聞こえてくる。光ある景色が見えてくる。誰がそんなことを言ったのか?その苦しみを決めたのは誰か?
あなたの人生を決めることができるのはあなたの魂だけです。そして魂とつながっている天。
この両者だけが、僕たちそれぞれの人生を導く舵を握っている。

 僕はここから確実に人々に光を見せる言葉、物語を見せる言葉、ワクワクするようなエンターテイメントと歌を書き続けていく。
あなたにはその証人になってほしい。
人はどこからでもまた再スタートすることができる。
どんな苦しみからだろうと立ち上がることができる。

 僕の読者さんはみなさん自立した素晴らしい方々といつも記事を拝読しながら感じていますので、恥ずかしいばかりですが、こんなクリエイターもいるのだと、面白く感じ、応援していただけましたらと思います。

 僕もあなたの人生に声援を贈り続けます。
誰もが幸せを感じられる世の中でありますように。

 世界は広い。
眼鏡の角度を変える、または色眼鏡をはずして、見えていなかった世界を見ていく。そのとき、きっと、自分が見ていた壁なんてマッチ箱のようなものだったと気づく自分がいるでしょう。
僕もいつでも世界を広く見ていける自分でありたい。

僕が、あなたが、幸せでありますように。

 Makoto ATOZI

(それだけの歌を書いてきたなら印税がたくさんあるのでは?ATOZIこそ盲点を見ていないのでは?という声も聞こえてきそうですが、ここは僕も見ている部分と見ていない部分があります。一時期はいい思いをさせてもらいました。そして経済的な苦しみを見てきた今。また新たな道が見えてきた今、僕には全てが開けていく景色が今この時とこの先にはっきりと見えています)

自分自身と共に歩むということ。

なかなかに身動きの取りにくい世の中だと思う。

何かを発言するとしても受け取り方は多種多様。

万人に通じる話だけをと思えば、思想を書くようなことはしない方が良くなってしまう。

思想を描くことがクリエイテイブであるとすれば、世の中は真逆へと舵を切ろうとしているように見える。

知らず知らずに心が塞ぎがちになるのであれば、開くための何かを施すことが大切。

自分自身をオートマチックにしてしまうと感情に負けてしまうよ。

自分自身と共に歩む。

思考を監視する。そして思考を自分の目と心から発しながら歩む。

僕にできることをと思い、作詞セラピーという講座を行なっています。

作詞セラピー

心をほぐして、時代に負けたりしないように歩みたい。

あなたにも未来の輝きを届けたい。

 

Makoto ATOZI

世界の見え方

 noteを読んでいるとHSPと宣言している人の記事をよく目にする。実際に診断を受けてのことかもしれないけれど、これも時代の流れの一つなのか、僕の若かりし頃には聞いたことのない言葉。

全人口の15-20%。5人に1人。かなりの割合でHSPは存在しているという。

HSPには4つの特性(DOES)があるのだそうですね。
D=Depth of Processing(深く処理する性質)
多くの人々にとっては簡単な事象であっても、深く見て、真理を理解しようとする。
O=Overstimulation(刺激へ過剰反応)
刺激への反応が過剰。疲れやすく、逃さずに反応をする。
E=Emotional response and empathy(強い反応 共感力)
心の境界線が薄いことから共感する力が強すぎる。
S=Sensitivity to Subtleties(些細なことへの察知)
通常では気づくことのないようなこと、五感などに対して察知する感度が強い。

 僕もそうなのだけれど「共感覚(音を色として感知するなど)」などもHSPの特徴のひとつに入るのかもしれない。
以上のDOESはインターネット上にあった情報を僕なりの言葉で解釈してまとめてみましたが、これをひっくるめて、アート感覚(芸術家体質)ということもできる。
クリエイターと呼ばれる人々には必須の感覚でもある。ゆるく鈍感(一般常識的)な感覚のアーティストって面白くない。
だけれど、鋭敏な感覚を持ちすぎるがゆえに現代では生きづらさも生まれてくる。

 30年前ではありえないような過激な表現も、今のNEWS、ネット、音楽、ゲームでは行われていて、情報多寡から、狂気に近いといえそうな現在の空気感を気にせずに生きることのできる人たちと、影響を受けまくる人達がいる。知らず知らず生命は接したものから影響を受けている。

 ある人は、「美味しい!美味しい!」といいながらステーキにかぶりつき、ある人は恐る恐るステーキを口にした瞬間に気絶してしまうかもしれない。
これは決して大げさなことではなくて、極端に繊細な人々の心の奥では、一般的感覚ではありえないようなことも、現実のこととして存在している。

 例えば今朝、布団から起きたばかりの繊細な生命に、「あなたが目覚める5分前に地球は新しく生まれたよ」と言うと、たぶん、そのことだけでかなりの期間、悩んでしまうかもしれない。遥かな宇宙に想いをリンクしてしまう。現実と妄想の境界線がぼやけてしまう。「あなたの心の声は全部、みんなに聞こえているよ」といえば、真に受ける生命もあるでしょう。

真面目であり、誠実であり、神のような、目には見えない存在とつながりがあるからこそ(またはそう感じているから)世界を神話のように見てしまうこともある。
もちろんこれはHSPというよりも、繊細すぎる生命の、ある一部的な傾向ではあるけれど、繊細(過敏)ということはそういうことで、物事を「まあ、いいか」としておけない。

 次から次へと不安材料を見つけてしまうことで、逃げグセがついてしまうこともある。極端に真面目な場合は逃げないで向き合おうとするために倒れてしまう。すべてをつなげて考えてしまう。全部自分ごととして考えてしまう。

だから周りは困ってしまう。本人も困っている。
責任感は人一倍で、普通の人の何千倍もの勢いで後悔し反省するのに、場合によっては、簡単に物事を投げ出したりするように見えることもある。実際に繊細な人は思慮深さは過激なほどでも行動に関しては後先を考えない人も多いのでしょう。
このような人々はサラリーには根本的に向いていないのだから、個人の才能を生かせる場所へと周りで導いてあげるべきだ。
性質的に偏っているからといって排除しようとするのではなく、せっかく持っている感性を生かせる場所がこの世界にもっとあるといい。

繊細な人はまっすぐであることが多い。(そのように受け止めない人、繊細さを出来損ないのように見るも多いけれど、実際に本質は実直なタイプが多い)嘘を見抜き、嘘を言えないという性格は本当は、とても貴重。

 あきらめる力を身につけたとき、繊細なハートはつよくなり、繊細だからこその豊かさが実ることもある。
笑って許し合えるような世の中であればいいのに。失敗を恐れなくてもいい世の中になればいい。どうすればそうなるのだろう。

がむしゃらに頑張る姿は美しいけれど、心を壊してまで頑張る必要はない。逃げたっていい。自分を生かしきれないような場所に居続ける必要はない。

そして人を信じていればいい。世の中を信じていればいい。20年前の僕に言いたい。信じなさいと。不安材料を探すことをあきらめなさいと。
こんな世の中で、感覚に敏感になってしまうと、なかなかにつらい。だけど、苦しんでいる心をわかろうとする心もまた、想像以上にたくさん存在している。この世界は自分自身が疑いを抱く前まではいつのときも天使たちが住まう世界なのだから。何も考えずに接するなら、相手も事前意識などは持たずにいてくれる。

精神的に不安定な人をあざ笑うような人も、いつ自分の身にそんなことが起こるかなんてわからない。世の中は移ろいゆくからあらゆることは起こりえる。何を精神的なつらさと呼ぶかは人によって異なっている。

 笑うものは、いつか笑われる。ながい人生の理。

「なるようになるさ」と生きるしかないなと思う。
僕はそうすることで、少しは心が楽になってきました。

「そのときはそのとき」未来を憂うなんてもったいない。過去を悔やんでも戻せない。でも感情は一瞬で変化させることができる。

 手放して手放して、何もかもが自分にはないな、と思ったあたりから人は楽になるのだけれど、そんなことをしなくても楽になれる道はきっとあるよね。この世界には実際に摩訶不思議なゾーンと現実的なゾーンは共存しているのだから、まあそんなものだよねって委ねられたならフラットに生きることもできるはず。

 今日のコラムが何の役に立つのかはわからないけれど、僕なりの経験から投稿してみました。

 僕が、あなたが、幸せでありますように。

 Makoto ATOZI

感受性について

 ああ、歳を重ねてしまったと思う。若さの素晴らしさを知るたびに思う。
感受性がまだ瑞々しさにある時、言葉は飛び跳ねる。
海のように空のように広く、粒子のように光を反射してきめ細かく、生き生きとした生命のように景色と記憶を見せてくる。
若さがうらやましい。僕は本来、うらやましいという気持ちになることがないのだけれど、若さがうらやましい。その時間が僕にもほしい。

このラインより上のエリアが無料で表示されます。

 あれほどに与えられてきた時間を無駄に贅沢に球遊びしてきながら、たどり着いた地で僕は茫然としている。

 ただただ若さがうらやましい。それは尊い宝物。
時代が暗い?先が見えない?
だからどうした若者。
なんだってできるじゃないか。何者にだってなれるじゃないか。
あれがない。これがない?
瑞々しい感受性があるじゃないか。心の機微を見る感性があるじゃないか。無茶苦茶になって泣くこともできるハートがあるじゃないか。
今から3年積み重ねれば、あなたはどんなこともできるような足場を作ることができる。その感受性があれば、幸せは思いのままだ。

 心に描いたままに世界はきっと応えてくれる。
若さから見る世界。僕もその世界を見てみたい。あなたが見ている世界のかなしみも喜びも、見えているセンスを僕も感じていたい。

 ときめきを、ワクワクを、天井を取っ払って、ダンスすればいい。
あなたの若さにグッとくる。
その言葉にノックアウトされる。
若者よいいなあ。若者よ。
朝方から酔っ払いみたいなコラムですが、noteを読んでいて、感じた感想をそのまま言葉にしてみました。

 いいんだろうかこんなことで。

 Makoto ATOZI

大切なこと

 こんにちは。作詞家 Makoto ATOZIです。

 僕はわかったようなことを話す時、周りの人はもっと人生を深くみているという前提で話をしています。

 中には偉そうに聞こえることもあるかもしれないけれど、それでも、僕のような生命の言葉が届く人も一定数いると感じています。そういう方々に向けて、僕なりの気づきを伝えようと話すことがあります。悲しみが癒されるように、新たに悲しみが生まれることのないように願いを込めて。

 もしも、あなたにとってみれば、こんな話をわざわざ聞かなくても…という場合はスルーしてください。

 僕には作詞家として歌を書く時、自分なりに叶えたいことがあります。
自分なりの志で歌を書いています。それは「闇を抱えている生命に光を見せてあげたい」ということ。この願いを持って僕は歌を書いています。そんな資格があるのかと言われれば、ないかもしれないね、という気持ちですが、それでも、僕は伝え続けます。

 僕たちの悩みの根本はどこにあるのか。それは自分の大切な生命に喜びを与えることができない時、抱えてしまう闇。
逆にいうのであれば、僕たちの幸せは大切な人を喜ばせてあげることにある。喜びの種は物質だけではない。言葉もあれば、心もあり、時間もあれば、体温であることもある。

 人生の道の上で何か良いことがあると、愚かな生命は自分だけの幸せを追い求めてしまうことがある。そうして気がつけば何を手にしてきたのかがわからなくなった宝島の上で立ち尽くしてしまうこともある。取り返しのつかないような時間の上で嘆くこともある。

女性は愛されることに喜びを見ます。だから幸せをいつも感じながら生きることで、美しくなれるし、人生の真実を知ることもできる。私なんて、とは言わないほうがいい。愛嬌を持って喜びを見ればいい。嬉しさの感度を上げる。

 男性は愛することに喜びを知るのだから、相手の言葉を真剣に聞いて、まだ相手が素直で真実を語っている間に言葉を聞いて相手の中に入り込んで言葉を記憶することが幸せにつながる。

 大切な人が本当に欲しいものは何なのか。
自分が本当に欲しいものは何なのか。

 人生なんて本当に短い。そして喜びを与える相手が見当たらなければ限りなく長い。与えられた時間の中で、どんな言葉を使って旅をするのか。

 短く感じられる人生を生きる生命は幸せなのでしょう。精一杯に生きている証。

 僕たちの想像では見えない闇を探してみたって仕方がないけれど、大切な生命に喜びを与えるために生きる人生は間違うことはないと思う。

僕はできることならば歌で喜びを与えたい。出会う人には望んでいる喜びを与えたい。喜びを与え続けていたい。

 喜びを与えること。分かち合うこと。喜びを見ること。

 幸せって本当はとてもシンプルなのだと思います。

 自分の後悔を心にお伝えしました。

 Makoto ATOZI

繊細なあなたへ

#11月の太陽と愉快な仲間たち

 用事があって、市の中心街まで自転車を走らせた。

 BGMにイヤフォンで平井堅『The Changing Same』を聴きながら。『Love Love Love』から『楽園』に変わり、自転車を走らせる。歌詞に耳を傾ける。22年も経ってしまうと、自分が書いたという実感も、少しずつ変化してゆく。2019年のある日、この歌を書いたことで、僕の人生は元の場所がどこなのか、もうわからなくなってしまったほどに、次元を変えてしまった。

 人生の重みに耐えられないと感じたこともありました。

 今、心の苦しみを抱えて誰にも相談できずにいる人も増えているという。HSP、PTSD、ADHD、発達障害、不安症、対人恐怖症、自閉症、自律神経失調症、統合失調症、うつ、メンヘラともいわれるすべての症状は、医師の診断において、自覚されることも多いのだろうけれど、僕の個人的な感想として、本来、確かな診断は誰にもできるものではない。

なぜならこのすべての症状のもとは一つ。脳と心から始まるあらゆる弊害は、診断された人だけにあるものではなくて、全人類が生命の内側に持っているものだから。精神的な不調の種は誰もが持っている。

あまり咲いてうれしい花ではないけれど、この種を咲かせてしまう人もいる。咲いてしまった花は診断された症状の一つの特徴でしかない。

どんなに屈強な人の内側にも、どんな人気者の内側にも、僕はこれらの苦しみの種を見る。人は強くもろい。心を責める側のほうが病んでいるということはよくあります。なぜならそれは排除するという心理。愛の行いではない。

脳と心の障害が顕著に出てしまう繊細な人たちは、なぜ人間関係で苦しんでしまうのか。一言でいえば、境界線をあいまいにしたままで生きているから。心の情報への無防備さに反してフィジカルな面での視野の狭さということもあり得る。

人の悲しみ苦しみまでも感知する能力は、そのままで怒りやマイナスな想念までも察知する。だからこそ生命を愛することもできるはずの能力で、自分自身を傷つけてしまっている。

誰かが何かを言えば、自分に向けて言っているのだと受け止めてしまう。たとえばnoteでフォロワーが書いた言葉も全て、自分に対してのメッセージであると感じてしまう。

たとえそれがその通りであったとしても、だから何だというのだとは、とらえることができない。実際は誰かがあなたに対しての何らかのメッセージを書いたとして、それをあなたはどのように受け止めればいいのだろう。

そもそも、それらの場合は批判であるから心を痛めるのであって、誰かに対しての批判を公の場に書いてしまうような人の言葉を、あなたは本当に受け止めなくてはいけないものだろうか?それはとってももったいないこと。エネルギーの無駄遣いだ。

何かを批判しようとして動き出すとき、生命はそれだけで道を踏み外している。そんなエネルギーの道連れになる必要なんてない。

♯批判のように感じられたメッセージの内側にはあなたへの愛が宿されているということもある。

#HSPって携帯電話でしょ懐かしいねってくらいに思えるといいんだけどね

実際の職場などで、あなたに挨拶をしない人がいたとして、それは本当にあなたに非があることなのだろうか。単に機嫌が悪かっただけとか、何か考え事をしていたということもあり得るし、きっとその通りなんだろう。

たとえあなたのことが気に入らなくて挨拶をされなかったり、何かを邪魔や嫌がらせをされたりしたとしても、それがなんだというのだろう。

この長い人生の道の上で、誰かが自分の行いに対して機嫌を損ねる。そんなことはあたりまえにあることでしょう。完璧を求めすぎるとき人生には壁が立ち上がってきてしまう。

ひとつひとつのことに全部、自分があのようにしたからだ、自分がここにいるからだ、あの人はきっとこうなんだ、なんて心に広がる情報空間の境界線をあいまいにしてしまうことで、苦しみは加速度を増す。

僕なんて今でも、誰かの僕に対しての思いを正確に察知したとしたら、きっと身動きさえも取れなくなってしまうようなこともあるだろうとわかっているから、思考を追いかけないようにしている。

それだけでなく、実際には僕のことを愛し、僕を引き上げよう、守ろうとしてくれている存在もあるというのに、大切な意識の持って行き場を見失うことはしたくない。あなたもおなじ。あなたが生きているということはあなたを愛している人がこの世界にいるということ。あなたは愛されている。

ありがたいことに、僕たちの人生。過去の行いは変えることができなくても感情は自由自在。今をどう考え、どう生きるかで、過去の感情は簡単に変わっていく。自分もそうだし自分以外もそう。感情は変わってゆく。

繊細な人々は確かに生きづらい。だからこそ気づくことのできる人生の真理もある。人の感情を変えることはできない。これに関しては、現状の感情に対してはあきらめるしかない。だけど未来と過去の感情には、現在の自分自身を変えていくことでアプローチすることができる。

身動きのできない状況に対して悔やむだけでは物事の解決は遠い。身動きできないと感じるなら、他者の感情にしがみつこうとしてしまう紐を手放してみる。

干渉と執着を手放す。

「まあいいか。それならそれで」という魔法の言葉があります。

僕はこの人生。この言葉で随分と救われてきました。

八方ふさがりだと感じるときも、四面楚歌だと思ってみても、それはあなたの境界線をなくした心が感じている妄想。

生きている限り光はある。

こんなことを書きながら、僕の過去を知る人が読んだなら笑われそうな自分ではあるのですが、それも過去の感情。

誰もが自分の価値観に沿って主張しています。みんな(奈落の底を見たことのないほとんどの生命は)自分が正しいのだと思い込んで生きている。SNSの時代。それはエスカレートしているけれど、巻き込まれる必要はない。

闇の中で責める側になるのか、光へ向かって歩む側になるのか。自分自身で決めたなら、あとはタロットカードの愚者のように、笑って旅を続ければいい。感謝の気持ちさえなくさなければ、人生はどこからだって立ち上がることができる。真心で接して執着を手放すなら、あとは結果は天任せ。

画像1

いずれはエンペラーのカードが正位置で出るでしょう。運命の輪のカードが正位置で出るでしょう。世界のカードが正位置で出るでしょう。

♯ドントウオーリービーハッピー

Makoto ATOZI