心を見ている心

 僕のデスクのPCに向かって、右端には地球儀が置いてある。

 国境の描かれていない地球儀。

 デザイン仕事のエステサロンオーナーさまからいただいたもの。本当はスマートフォンでそれぞれの場所(国)をかざすと、光ったり、様々な情報を見ることができるという、テクノロジーが活用されている地球儀。

 しかしながら、ぼくの携帯電話は、いまだにガラパゴス携帯電話。かざしてみても、うんともすんとも言わない。

 いまは、ナチュラルな美しい地球儀として、日本が見えるような位置で、僕の目を和ませてくれている。小さな島国と言われながら、なかなか日本は大きいな、なんて思う。龍のかたちをしている。

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 僕たちの住む地球も、誰かがこうして、どこかで見ているのかもしれない。地球儀を見ながら空想する。小さな地球儀に、心で話しかける。

 「幸せでありますように」「みんな元気でありますように」

 僕たちの心はおしゃべりだ。

 誰かと一緒にいなくても、心は勝手に何かを思案してしまう。計画したり、心の中で誰かに話しかけたり、悩んだり、虚勢を張ってみたり、落ち込んでみたり、いとしさを伝えてみたり、未来を思い描いたり、誓ったり、祈ったりといそがしい。

 心に気づきを向ける。

 気づきを向けた心を見ている心が外側にあることに気づく。

 さて、では、自分の心とは、気づきを向けられた心のことをいうのか。

 心を見ている心のことをいうのか、なんて考えてみる。

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 空を見上げれば、あの空にも心があるのだということがわかる。ずっと空を見ている。あの空の向こうにもまた、心があるのかもしれないと思えてくる。

 全てを包み込むような心さえも自分自身であるような感覚を知る。それを超えて、また、空を包み込むように見守るような心があるのだと気づく。

 身体の中に、もたくさんの微生物が生きている。微生物にも、あらゆる細胞にも、心があるとしても全てはつながっている。

 心を見る心は、瞬間で移動し、干渉しあい、この地球を動かしているのかな、なんて思えてくる。

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 4年ほど前に描いたイラスト。

 呑気なことを考えていたなあと思う。

 心にはロマンを感じていて、明日を疑ってなんていなかった。

 想念と疑いに支配されて、心病んだこともあったけれど、それでも、安らぎはあった。

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 ついつい、世間の情報、人々の感情、様々な事情によって、心の中のとてもやわらかな部分が傷ついてしまうような感覚につらいこともある。

 本当の優しさ、やわらかさ、うららかさ、しなやかさを、忘れずにいられたらいいなと思う。

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 影響を受けやすい時代を僕たちは生きている。

 僕たちと言ってしまうと、ちがうなんていわれるかもしれないので、少なくとも、僕は影響を受けやすいなあと思う。

 いつも内側から自分自身を確かめていたい。

 心の動き。心を見ている心のあたたかさ。身体の動き。身体の感覚。地面と触れ合う足の裏の感覚。背骨を通る大地と太陽との伝達線。

 気づけていますように。

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 時代ハズレだとか、時代遅れだとか、あいつはちょっとおかしいんだなんて言われたとしても、自分なりに守り抜きたいと思う真実は守り抜きたい。

 僕の部屋にある地球儀には国境が描かれていない。

 美しい青色を見ていると、自分はなんてちっぽけなのだと思えてきて、それとおなじくして、人生の可能性の大きさを感じる。

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 先日、母の憧れが地球儀だったと知って、誕生日に地球儀を贈った。

 脚が不自由な母は、本当はたくさん旅をしたいのだけれど、様々な理由から、それができない人生を歩んできた。この混沌とした世の中の流れがもう少しおさまる頃が来たなら、様々な場所へ連れて行ってあげたい。

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 多くの人々の愛に支えられて生きてきた。

 思い出は全部、感謝だけでできている。

 すぐに初心を忘れそうになってしまう愚かさは健在だけれど、あまりにも大きな恵みに支えられてきた人生。

 ギリギリの場所から何を返せるだろうかと考えてしまう。

 モノ、植物、身体、光、僕が様々なものを見るように、僕もまた見られている。見ているのが自分なのか。見ている自分を見ている何かが自分なのか。

 地球儀を見ながら、そんなことを考えていた朝。

 人生という贈りもの。これはすごいものだと思う。

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