たましいの来た道 続き②

 抽象さ満載な書き方ではありますが、たましいのふるさとなんて、本当のところがわからないので、仕方がありません。

 人生には限りがある。

 僕もあなたも、この人生を終える時が来る。

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 そんなことなんて考えたこともなかったような人々も、いつまでも自分だけは生き続けるとなんとなく思っていたような人々も、2019年冬あたりからの激動の時代に面して、人生のあとさきを考えるようになり始めた。

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 音楽、芸術、科学、道徳、人生、あらゆることにおいて極める際に重要なことは死生観。

 終わりから物語を描く。

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 一時期、藤原新也さんの写真集「メメントモリ」が注目されたことがあった。

 僕もあの写真集に衝撃を受けた。

 僕の表現手法の中心には、「メメントモリ」が持っていた世界観が知らず識らず含まれている。

 良し悪しを抜きとして、影響を受けている。

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 ブッダは、死と病気の恐れからの脱却をはかり、仏教を立ち上げた。

 しかしながら、2500年の時を経て、語り継がれてきた内容は四方八方へと広がり、全ての言い分(教え)を聞くと矛盾に満ち溢れてしまう。

 我のない境地を目指して瞑想を行い、アートマン(自分という確かな存在の連続性)は存在しないと言い放つ。

 消滅を至上とする中に幸せはあるのか。一理違うと思う。

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 この命果てるとき、空は光で覆われ、黄金のきらめきに母父、仲間たち、ご先祖さま、または天使たち、妖精たち、またはフェニックス、または我が家のペットだった愛犬プチ、神々が空から現れ、またはニュッと隣に現れ、驚きとともに人生を悟らせ、光のもとへと吸い込まれていくのだろうか。

 それとも、さあご臨終となった次の瞬間、目を開けたなら、まだベッドの上で生命は続いていて、なかなか死ぬこともできずに、自分(あなた)だけは何千年も何万年も生きる初めての生命体になってしまうのか。

 フィジカル(物体的)な寿命が尽きた瞬間。

 たましいとして瞬間移動が可能になるのか。あらゆる万物に宿り、すべてにおいてすべてとなり、この世界の謎がいともあっけなく解けるのか。

 まったくもってわからない。

 わかるはずがない。

 わからないから、今日も何気なく生きていることができる。

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 いまだに誰にもそれを解くことはできていない。

 誰にも解明できず証明することもできない。

 量子物理、量子のもつれ、遺伝子、さまざまなことが解明されようとも、さて、ではたましいはどこへ還るのかと問われれば、誰一人として本当のことを知らない。

 全ては推測でしかない。

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 予言のように、経験者のように語られようとも、万人に当てはまる答えがあるとはどうも思えない。

 「量子のもつれ」、なんて、「漁師のもつれ」くらいにいい加減な言葉にも見えてくる。

 それでも自分の瞳を内側から意識して、自分の口を鼻を身体を内側から意識して気づいてみたなら、心のありかには、確かに気付くことができる。

 ここにある。

 最後、それがどうなるのかなんてわからない。

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 とりあえず毎晩眠って、「最後の日に似たような」ことを毎日体験している(眠り)。眠っている間にどうなるだろうとか、目が覚めなかったらどうしようなんてことは考えない。ぐっすりとしたもんだ。

 もしかしたら眠っている間にミサイルが落ちていたのかもしれない。自分も全ても無くなって、焼け野原になった場所が起きた瞬間に、目が開いた瞬間に、いつも通りの場所としてここにあるなんて物語もなくはない。

 パラレルな世界がもしもあるとするならば、国の有無も歴史も違うかもしれない。

 眠っている間に、神々が会合を開き、ある神が発言し「私は考えが変わった。人々にもう一度最高の人生を与えたい」なんて話を進めてくださっていたなんて物語もなくはない。

 だからいい。これでいいのだ。

 ああ、今、生きている。春の風が心地よい。仲の良い人々もいる。笑顔にも会える。ごはんが美味しい。青空が美しい。

 まあいいか。難しいことは考えなくて。

 これでいいのだ。